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仕事でトルコにしばらく行っておりました。ニュースでやっている反中デモの影響は日本人もあるようで、
流しのタクシーに嫌がらせやなんかをされた日本人がいくらもいたのだとか。
あぶねえから今回はあんまり出歩かないでおとなしくしていました。あぶねえからというのもありますが、
そんなに出歩いてもうまいものはなさそうだというのが昨年わかっていたからというのもあります。
しかし、日本人と中国人、韓国人の区別はトルコ人にはわからんようで。
私がヨーロッパの人々の顔が同じように感じるのと同様に、トルコ人にとってはアジア人がぜんぶ同じ顔にみえるのでしょうナ。

そんななか、トルコの仕事も無事終わりました。渡航前にためこんでいたいろいろな宿題も、
余りで歩かなかったので、ぼんやりとやってなんとなくできました。


もう一つ、宿題がありました。私は娘の名前をつけずに渡航してしまったので、
名前を考えてあげなければいけません。例によって顔を見てからきめようとしてましたが、
今回は困難いたしまして、漢字辞典を持って渡航したわけです。


厳選なる審査の結果、「綾乃」と命名しました。「綾」は色彩や織物をあらわすようです。
色の陰陽がおりなす美しさや、縦糸と横糸のきれいな織り込みのように人付き合いを丁寧にしてほしいという
意味を込めました。トルコの工事もいろんな人が関わってすすんでおった。織り込みを丁寧にしないと良いモノはできないです。


いやしかし、スマートフォンを通じて日本とトルコで名前の検討ができるというのも、すごい時代だなと思います。


2人目の娘が誕生しました。

入院する日であった昨日、山の神はまったく涼しい顔をしておりました。
二度目とはいえ、翌日には腹を切って子供を取り出すというのに、恐怖や不安はないのかと思いましたが、
じつにサッパリしている様子でした。本人より私の方が落ち着きのない様子であった。今更ながら、
なんて人だと思いました。翌朝も私は前日に輪をかけて落ち着きなく、不安でソワソワしておりましたが、
赤ちゃんはじつにあっさりと誕生し、元気に泣いておりました。なんて赤ちゃんだと思いました。
病院をあとにして保育園に娘を引き取りにいきました。母親のいないことで泣きまくるかと心配しておりましたが、
何食わぬ顔で夕飯を食いまくり、トイ・ストーリー3を見て大喜びしておった。なんてやつだと思いました。

すべては私の杞憂であった。一人相撲をとっているだけであることに気づくたびに、安堵と喜びで涙が出そうになりました。
ついでに久々のトイ・ストーリー3にも涙しました。まったく情けない泣きハゲであります。


先月は橋下さんの提案した大阪「都」構想は反対派多数で実現ならなかったという選挙がありました。
私はあの一連のニュースを見て、千葉県は千葉「東京」構想というのを思いつきました。
千葉県はかつて成田空港が「新東京国際空港」を名乗っていたあたりから、東京ディズニーランド、
ららぽーと東京ベイ、東京ドイツ村、東京歯科大学、松尾橋梁東京工場、伊藤ハム東京工場など、
なにかと「東京」をつけたモノが多くみられます。これの現象は神奈川県にはなかった。
おそらく埼玉にもないと思います。千葉県独特の文化であるような気がいたします。
そこで、千葉県は「東東京県」に県名を改めて、新たなスタートを切ればいいのではなかろうか
というのがこの千葉「東京」構想であります。
東東京県に変更することにより、「これディズニーランドは東京じゃねえじゃん」という
聞き飽きた文句にも休止符が打たれ、旧千葉県民は「東京に住んでいる」という安心感から治安が良くなり、
なんとなく地価も上がっていくわけです。また、千葉県は東京都、神奈川県に次ぐ「関東第3の都道府県」を
長年埼玉県と争っているわけでありますが、東東京県の誕生によりこの論争には休止符が打たれ、
神奈川県が焦り始めるはずであります。県庁の最寄りのモノレール駅も「県庁前」ですから、
県名かえてもそんなに影響ありません。最近年賀状も「市」から書き始めますし。
 
私が知事選に出馬の折にはこの「東東京県構想」を公約にするつもりですが、
いかんせん私は今仕事が忙しいので知事なんかやってられんのです。
なんか、めんどくさそうですし。


ディズニーシーに水門風デザインの張りぼてがあるところがあるんです。
ちゃんと巻上機がついてて、すげえなと思いました。そんなところに目がいくのは、
私がかつて水門の部署にいたからです。そうでもなかったら気にもとめないとこじゃないかと思います。
もう10年以上前の話ですが、入社して配属先が水門設計であるということでもなかったら、
世の中に水門というものがあることも意識しないで暮らしてたんじゃなかろうか。

あまりご理解はいただけないのですが、水門というのはなかなかかっこいいんです。
これを熱弁すればするほど、読者の皆様との温度差が発生いたしますのでよしておきますが、
かわりに鋼製ゲート五訓を転載いたします。
 

【ゲート五訓】
一. 大略は不動の態でもって機能を果つる社会基盤施設の中にありて唯一動の態でもって機能を果たすもの
それがゲートなり

二.巨大水圧に抗い閉の態にて千変万化の流れを細やかに御し、閉の態にていささかも漏らさぬ美技を演ずるもの
それがゲートなり

三.大なる堰体にありて、大ならざるもその役割機能は人体の心臓の如く中要たるもの
それがゲートなり

四.機械技術・土木技術等々、分派せし数多のものづくりの実学・工学の智慧の集いて設計さる総合工学の華、
大地に座すものづくりの誉れ
それがゲートなり

五.八百萬の土木施設ものづくりの海にあって原点に復し水の性を究の物を真し心眼にて設計するを技術者に求めるもの
それがゲートなり

以上


ゴールデンウィークに国立競技場の解体したとこを見ましたが、ボロボロになった競技場は
特撮の1シーンを見てるかのようで衝撃的でありました。ちょっとした特撮撮れたんじゃなかろうか。もったいない。

新しい国立競技場については方々で色々言われてますし、私がどうのこうの言うところでなんのアレもないですが、
私は1964年のオリンピックと同じ競技場で新しいスターが登場していくというほうが良かったんじゃなかろうかと思います。
国立は壊してしまったから、駒沢公園を改修してやったらいいです。盛り上がりますよ(世田谷区民が)。
オリンピックは万博のように一時的な扱いのなんだから、サッとやってバッとしまえるようなイベントに
するのがいいと思います。東京はそのカラーを打ち出すプレゼンテーションをすべきであった。


安くオリンピックが開催できる例を示せば、今後開催国が「あ、あれならうちの国でもやろうかな」
という流れができて、またオリンピックの幅広さが出てくるんじゃないかと思います。
東京ほどの都市がそういうモノを示せれば、運営の側も今後随分楽になるだろうし、いろんな国で
オリンピックができるようになったらなかなか楽しいんじゃないかと思います。あんまり聞いたことない国で
オリンピックを開催して、劣悪な環境の中で妙なスターが出てきたりするのも愉快じゃないかね。


いやしかし、どの国でオリンピックやっても何かしらの混乱や反対運動が起こるのは、
あのオリンピック招致の委員会がいかんのよ。接待ばっかり受けやがって。
あの委員会はどうやったらなれるんだ。冗談じゃないよ。


久々のお題目駄文です。本日は私の仕事から、免震・制振についての内容です。

<メンシンセイシン>
私は制振や免震の機械を作る仕事をしています。制振、免震機器というのは対象物が風、地震といった
自然の力であるわけです。東日本大震災を目の当たりにして痛感しましたが、自然に立ち向かうという行為は
実におこがましい。災害大国にして長年にして培われた我が国の技術は、この自然の脅威となんとか共存しよう
という気持ちがなんとなく根底にあるのではないかというのが近頃になって思っていることです。そんなところで、
どのように「安心」が作れるかというのが災害対策の仕事をするうえで考えないといけないことだと思うようになりました。

私は名前に「竜」がつくことから、いろいろ竜にまつわる話を読んだりするのが好きです。
中でも好きなのは風水の話であります。中国では街づくりや新しい建物の建築においては、設計士と同格に風水の先生という人が
いて、設計の作り込みをおこなうらしいです。風水で一番大事なことは「竜の通り道」を確保することであります。
竜は水のカミサマですから、竜の通り道はすなわち水まわりの設計であったり、水害対策であったりするわけです
生きていくためには水は大切ですから、そこを中心として設計をはじめるというのはなんとなく通りにかなっているような
気がしますし、経験則から成り立った風水というのは、あながち怪しい呪術のようなモノとは一線を画したモノであるような
気がします。この話が書かれた本は20年ほど前なので、いまではどうかわからんですが、かつて風水が「安心」の
拠り所であったことがたしかにあったわけです。
 

これに対して我が国では現状、その風水学に代わる「安心」の拠り所は物理学であります。物理学に基づく数値が、公的な基準をクリアしていることで「安心」が得られるわけです。私どもが取り扱っている制振や免震に関わる機械というのは「本当に効くのか」というアヤシゲな扱いをされがちですが、根底には物理学がいるのです。そこをクリアしないと、東洋ゴムのように怒られてしまう。また、昨今では原発の基準など、物理的な数値をクリアしても「安心」とはなりかねているものもあるようです。

話が長くなりましたが、けっきょく「安心」というものの拠り所というのは時代とともにいろいろ移り変わる、
なんだかよくわからない、フワッとしたモノなんじゃないかというのが近年の私の思うところです。
今のところ、物理学を基にした「安心」をお届けするにとどまっていますが、そのうち、そうでもないようなことを
考えていかないといかんのではないか。それはなんなのかなというのをこれから考えてかないと
いかんのではないかというのが最近思うところです。




先月から再開いたしましたが、また間が空いてしまいました。
別に体調悪いとかいうわけではないのですが、どうも最近は脳の側が調子悪くていまひとつ元気がないです。
あれだけ飲んでいたビールも飲む気になりませんし、なんとなく物欲がなくなってきてガチャガチャもやらなくなりましたし、
くだらん文章もなんとなくかかなくなってきました。これは、どうしたことか。

今年に入ってどうでもいい事に感激して泣きそうになったり、へんなコレクションを整理しようかと思い始めたりと、
ぼんやりと気持ちに変化があるのはなんとなく自覚してます。
これがジジイ化によるものなのか、単なる心境の変化なのか、
アベノミクスの余波なのか、ベイスターズの謎の快進撃の影響なのかわかりませんが、
サナギ的な段階にきているのかもしれません。そのうち私は糸を吐いて繭を作り、モスラのように生まれ変わるかもわからん。
サナギのまま茹でられて、糸だけとられるかもしれませんが。


そういったかんじでして、なさけない内容で失礼します。


いくら私が博物館に行きたかったとはいえ、娘に「アリエルを見せる」と言ってこれを見せたことは猛省しております。



江戸時代に作られた、人魚のミイラです。猿と鮭を用いて作られた見世物であり、海外にも輸出された縁起物で、
一見すると10年寿命が延びるとされています。じつに気持ち悪い。

千葉・佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)では、現在企画展「大ニセモノ博覧会」が行われております。
陶器や掛け軸、古文書、レコードなどの偽物が満載で楽しかったです。
わたしも点描画や版画にかけては偽物をこしらえているようなものですから、実に勉強になりました。
本業の工業はホンモノを、虚業のお絵かきはニセモノを作ることに注力していきたいと思いを新たにいたしました。

興味のある方はこちらをどうぞ。6日までです。

http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/150310/specially/index.html
歴博は展示の仕方がうまいのです。場所がかなり辺鄙ですが。

井澤


「ラッスンゴレライ」の本当の意味がどうのという話題が本当に見事です。
このネタは「ラッスンヘル」や「チョットマッテ」という米軍の爆撃機名前のはいった原爆の賛歌を
意味するものだとかいうような、あまりいいものではないのですが、これが意図的に作られたモノだろうが、
偶然そうなったのだろうが、その内容がいいか悪いかは置いといて、わけわからん流行になってることも含めてスゴイ。
心底つまらんものだと思ってただけに、やられた!と思います。私はああいった面倒くさいウソネタが好きですので。


私は図面やなんかを書いたりすることを生業にしているわけですが、
なんで人間は絵を描くかということを近頃考えていました。そもそもの絵を描くルーツは「生き延びる為」だった
のではないかという気がします。たとえば人間の祖先はたべもののとりかたを洞窟の壁やなんかに書いて、
みんながそれをみてたべものを取れるようにしていたのかも知れない。

となると、絵を描くことというのは特殊技術ではなく、生存を続ける手段であり、
ヘタクソだろうが何かしらかいていった方がいいんじゃないかという気がします。
字は汚くてもみんな書く癖に、絵をかくというのはどうも特別なことのように扱われていますが、そうではない。

先日はパスポートの更新で、押されたハンコの数々を見ていろいろ怒られた履歴をたどって落ち込んでいた話を
書きました。英語もろくにできないまま海外の仕事を頼まれたときに、助かったのは私は図面と絵がすこしばかり
かけるということでありました。聞くのはできませんが、絵が描ければこちらの意図はわりと通じるのです。
割り切って凄まじく訛りのきつい人としゃべっていると思えばあんまり気負いしないです(するけど)。

そういうこともありましたし、やはり絵は生き延びるためにかくものであるような気がするのです。