201507
Monday
201507
Saturday
2人目の娘が誕生しました。
入院する日であった昨日、山の神はまったく涼しい顔をしておりました。
二度目とはいえ、翌日には腹を切って子供を取り出すというのに、恐怖や不安はないのかと思いましたが、
じつにサッパリしている様子でした。本人より私の方が落ち着きのない様子であった。今更ながら、
なんて人だと思いました。翌朝も私は前日に輪をかけて落ち着きなく、不安でソワソワしておりましたが、
赤ちゃんはじつにあっさりと誕生し、元気に泣いておりました。なんて赤ちゃんだと思いました。
病院をあとにして保育園に娘を引き取りにいきました。母親のいないことで泣きまくるかと心配しておりましたが、
何食わぬ顔で夕飯を食いまくり、トイ・ストーリー3を見て大喜びしておった。なんてやつだと思いました。
すべては私の杞憂であった。一人相撲をとっているだけであることに気づくたびに、安堵と喜びで涙が出そうになりました。
ついでに久々のトイ・ストーリー3にも涙しました。まったく情けない泣きハゲであります。
201506
Monday
201505
Saturday
ディズニーシーに水門風デザインの張りぼてがあるところがあるんです。
ちゃんと巻上機がついてて、すげえなと思いました。そんなところに目がいくのは、
私がかつて水門の部署にいたからです。そうでもなかったら気にもとめないとこじゃないかと思います。
もう10年以上前の話ですが、入社して配属先が水門設計であるということでもなかったら、
世の中に水門というものがあることも意識しないで暮らしてたんじゃなかろうか。
あまりご理解はいただけないのですが、水門というのはなかなかかっこいいんです。
これを熱弁すればするほど、読者の皆様との温度差が発生いたしますのでよしておきますが、
かわりに鋼製ゲート五訓を転載いたします。
【ゲート五訓】
一. 大略は不動の態でもって機能を果つる社会基盤施設の中にありて唯一動の態でもって機能を果たすもの
それがゲートなり
二.巨大水圧に抗い閉の態にて千変万化の流れを細やかに御し、閉の態にていささかも漏らさぬ美技を演ずるもの
それがゲートなり
三.大なる堰体にありて、大ならざるもその役割機能は人体の心臓の如く中要たるもの
それがゲートなり
四.機械技術・土木技術等々、分派せし数多のものづくりの実学・工学の智慧の集いて設計さる総合工学の華、
大地に座すものづくりの誉れ
それがゲートなり
五.八百萬の土木施設ものづくりの海にあって原点に復し水の性を究の物を真し心眼にて設計するを技術者に求めるもの
それがゲートなり
以上
201505
Thursday
201505
Thursday
久々のお題目駄文です。本日は私の仕事から、免震・制振についての内容です。
<メンシンセイシン>
私は制振や免震の機械を作る仕事をしています。制振、免震機器というのは対象物が風、地震といった
自然の力であるわけです。東日本大震災を目の当たりにして痛感しましたが、自然に立ち向かうという行為は
実におこがましい。災害大国にして長年にして培われた我が国の技術は、この自然の脅威となんとか共存しよう
という気持ちがなんとなく根底にあるのではないかというのが近頃になって思っていることです。そんなところで、
どのように「安心」が作れるかというのが災害対策の仕事をするうえで考えないといけないことだと思うようになりました。
私は名前に「竜」がつくことから、いろいろ竜にまつわる話を読んだりするのが好きです。
中でも好きなのは風水の話であります。中国では街づくりや新しい建物の建築においては、設計士と同格に風水の先生という人が
いて、設計の作り込みをおこなうらしいです。風水で一番大事なことは「竜の通り道」を確保することであります。
竜は水のカミサマですから、竜の通り道はすなわち水まわりの設計であったり、水害対策であったりするわけです。
生きていくためには水は大切ですから、そこを中心として設計をはじめるというのはなんとなく通りにかなっているような
気がしますし、経験則から成り立った風水というのは、あながち怪しい呪術のようなモノとは一線を画したモノであるような
気がします。この話が書かれた本は20年ほど前なので、いまではどうかわからんですが、かつて風水が「安心」の
拠り所であったことがたしかにあったわけです。
これに対して我が国では現状、その風水学に代わる「安心」の拠り所は物理学であります。物理学に基づく数値が、公的な基準をクリアしていることで「安心」が得られるわけです。私どもが取り扱っている制振や免震に関わる機械というのは「本当に効くのか」というアヤシゲな扱いをされがちですが、根底には物理学がいるのです。そこをクリアしないと、東洋ゴムのように怒られてしまう。また、昨今では原発の基準など、物理的な数値をクリアしても「安心」とはなりかねているものもあるようです。
話が長くなりましたが、けっきょく「安心」というものの拠り所というのは時代とともにいろいろ移り変わる、
なんだかよくわからない、フワッとしたモノなんじゃないかというのが近年の私の思うところです。
今のところ、物理学を基にした「安心」をお届けするにとどまっていますが、そのうち、そうでもないようなことを
考えていかないといかんのではないか。それはなんなのかなというのをこれから考えてかないと
いかんのではないかというのが最近思うところです。
201505
Sunday
201505
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201504
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201504
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